出西窯は出雲にある窯元です。ここの器はどれも、人の生活に寄り添うことを大切に作られています。戦後間も無く創業した出西窯はどんな想いで創業されたのか。現在は何を伝えるためにものづくりをしているのか。代表取締役の多々納さんに伺いました。
―出西窯ができたのはいつ頃ですか。
出西窯は元々第二次世界対戦が終わってすぐに、島根県の出西というこの地区に生まれた農家の次男坊と三男坊が創業しました。当時の農家だと長男が家業の農業を継ぎ、それ以外は家を離れ、都会に出て働くのが一般的だったんです。
ただ当時は終戦間も無くで戦火の爪痕が残っている状態。一番近い広島は原爆を投下され、東京や大阪も空襲で焼け野原。そのような中では都会に出ても仕事なんて何もなかったんです。そこで生まれ育ったこの地で生きて行くために創業したそうです。
―大変な時代に創業されたのですね。
そうですね。そんな大変な時代だったからこそでしょうか。戦争に関係のない、何か美しいものを作りたいと思ったわけです。戦争の時は美術や芸術、そういった美しいものを真っ先に排除するじゃないですか。だからこそ自分たちの手で美しいものをつくりたいと思ったそうです。
―その中でなぜ焼き物を選んだのですか?
創業メンバーの年齢は18歳前後。現代の高校生の年齢です。当然彼らにはものづくりの経験も何もなく、ものづくりがしてみたいという好奇心のみで創業したので、いろんな選択肢を考えていたみたいです。
その中で焼き物ならば、当時この地域でやっている人がいなかったので真新しさもあるし、しがらみなく自由な発想でものづくりができるのではないかと考えたそうです。それからは本を読んで焼き物の知識を学んだり、経験豊富な方の元に通い、数年間の指導を受けながら技術を体得していきました。
―まさに0からのスタートなんですね。出西窯は食器が有名ですが、創業当初から注力されていたんですが?
現在は食器など、日用品を中心に作っていますが、創業当初は美術的なもの、価値の高いものを作っていました。創業者は“美しいもの=高価なもの”といった考え方が根本にあったんだと思います。
その一方で、当時は民藝運動という活動ありました。創業者はこの民芸運動に出会い、強い感銘を受けて、高価なものから、食器などの日用品に作るものを変えていったんです。「民藝」ってあまり馴染みがない言葉だと思いますが、どのようなイメージがありますか?
―伝統的なもの、みたいなイメージがあります。
それもありますよね。かつては陶器を作るということは、お殿様や貴族など、お金をたくさん持っておられる方のために作るもので、それが一番美しいと言われていた時代があったんです。
それが民芸運動という考え方では、民衆が生活の中で使う道具の中にも、美しいものはあるんだという考え方です。だから我々は特別な人ではなくて、普通に生活している人たちに対して、生活の中で当たり前に使ってもらえるような美しい道具を作っているんです。
―それで日用品である食器を作って行くようになったんですね。美しい道具を作るために、製造方法でこだわっている点を教えてください。
何よりも手仕事に徹しています。機械には頼らず、粘土をこねて、ろくろを回して、100%ハンドメイドでやっています。お客さんに良いものを安く提供するためにも、技術は一人ひとり高い水準を持つようにしていますし、効率性を考えるようにしています。
材料にも出西窯らしさ、オリジナリティを出すためにこだわっています。粘土は島根県産のものを使ったりと、地元の素材を最優先に使ったり、釉薬(うわぐすり)という焼き物にツヤを出すために塗るものは、なるべく江戸時代とほぼ変わらないものを使うようにしているんです。
―出西窯の器にはこだわりが詰まっているんですね!
そうですね。でも一番大切にしているのは、ただお皿を作るんじゃなくて、そこに料理が乗ってどんな姿になるかイメージするということです。
―料理が乗る姿をイメージするとはどういうことでしょうか。
私たちは飾り物の食器ではなく、生活の中にある食器を作っています。そうした日常で使われる食器というは、料理を盛り付けて初めて完成するものだと考えています。だからその姿を想像することは、使ってくれるお客さんをより理解できたり、より良いものを提供することにつながるんです。
そのためにも出西窯の作り手は、料理や食べ物に興味を持って、自分で料理を作れないといけません。自分自身がお皿に料理を盛り付けることで、どんなデザインがいいのかという感性が洗練されて行くんです。
―なるほど。ではそういった姿を想像できる人がこの仕事が向いているんでしょうか?
私たちのものづくりで一番大切なのは“人が好き”ということです。人の生活の中で使われるものを作るためには、人が好きで人に興味を持つことが必要です。
先ほどお話しした、料理が盛り付けられる姿を想像するというのも、突き詰めれば人が好きということに繋がるんです。人が好きでないと、出西窯のものづくりの本質が理解できないと思います。
―大切なのは人が好きっていうのは意外でした。でも器だけではなく、人の生活の中で使われている姿こそが出西窯の考える美しさなんだと考えれば、それも理解できます。多々納さんはそういった想いを創業者から受け継がれているんですね。
私の父が創業メンバーの1人なんですが。会社を継いでみて、やはり父を超えられないと感じています。今では私たちのものづくり、想いを全国の方にある程度知ってもらえるような会社になりましたが、その基礎を18歳で起業して、0から作っていったんですから。そんな父が作った背景の中で、どれだけ近い仕事が我々にできるか、自問自答の日々です。
―伝統を受け継ぐ側だからこその葛藤ですね。
そうですね。20歳で入社して、父と一緒に仕事をしながら様々なことを教わったと思います。最近では父が作った基礎と、私が今まで積み上げたこの出西窯という会社をどうやって次の世代に継いで行くのか。そういった技術や文化の継承に関しても考えなくてはいけない年齢に私もなりました。
―次の時代へ出西窯のものづくりを伝えていく。それも大切な仕事ですよね。若い世代の育成などで課題はありますか?
昔と比べてこの仕事をしたいと思ってくれる人が少なくなっていることですね。楽しいけれど、ものすごく努力しないといけないし、なるべくお客さんに良いものを安く提供していこうと思うと、そんなに大金をもらえるわけではないですからね。
自分で独立して焼き物をやろうと思っても、窯や機械など、初期投資にたくさんのお金が必要です。だから興味がある人にはまずこの会社に入ってもらい、出西窯の設備を使ってもらいながら、一緒になってものづくりができればいいなと思っています。
―伝統工芸の分野は担い手不足が深刻ですよね。逆に販売先、買ってもらう人を増やすために工夫していることはありますか?
先ほど、出来るだけ手仕事にこだわっていると言いましたが、日本でそういった仕事をする人はほとんど田舎でものづくりをしているんです。そうすると田舎に人は来ないから、作ったものを都会で売らなければいけません。
直接売ればそのまま収入になりますが、都会のデパートなどに商品を卸すと、仲介料がかかるので利益が出ないんです。かつて私たちも都会の方に商品を送って、地元の店舗では今日は誰も来ないねと、待ちぼうけていました。
でもそれではダメだったんですね。売り上げを増やすためには、お客さんに直接きてもらい、直接販売できる体制が必要なんです。そのために作業場の横に無自性館(むじしょうかん)という展示販売所を作りました。その前には炎の祭りという、窯元に来てもらうためのイベントも開催していました。このように訪れる人が増えるために工夫しています。
―洋服のお店やパン屋も人を呼ぶためでしょうか
そうです。ここの敷地にはパン屋さんと洋服のセレクトショップが併設しているんですが、それも人が訪れるきっかけづくりのためです。カフェとかパン屋だったら、焼き物に興味が無い方でもここに訪れてもらえますし、カフェで使っていた陶器に興味を持ってくれれば、横に陶器屋さんがあるらしいからちょっと見てみようという機会に繋がりますよね。
セレクトショップも神戸に本社があるお店で、ファッションに興味がある人がここを訪れるようにしています。そうやって人を集めることで焼き物に興味を持つきっかけを増やして来たんです。そう行った興味の連鎖を今後も拡大して生きたいと考えています。